ザ・ドリーミング・フェスティバル2009
日本演出者協会 理事長
和田 喜夫(演劇企画集団楽天団)
2010年3月
2009年 6月5日より3日間、オーストラリア大使館の招待によりクイーンズランド州都、ブリスベンから車で内陸へ3時間程のブッシュ地域にあるウッドフォード(Woodford)で開催された「第5回The Dreaming Festival」を訪ねた。2001年より共同作業をしているアボリジニの劇作家・演出家のウェズリー・イノック(Wesley Enock)より、このフェスティバルの存在を聞き是非行ってみたいと思い続けていたので、大使館から話を受けた時は天にも昇る心地だった。
ドリーミング・フェスティバルの歴史と背景
ザ・ドリーミングは、2005年より先住民の国際的なフェスティバルとして本格的に始まったとのこと。プログラムに記載されていた現在に至るまでの経緯をまずご紹介する。ドリーミング・フェスティバルの歴史と背景
第一日目
- いよいよフェスティバル会場へ
- オープニング・セレモニー
第二日目
- レイチェル・マザとの再会
- ダンス会場 Dancestry
- 芝居『ペイジ・エイト』公演
- ローダ・ロバーツ芸術監督とのミーティング
- ゲストのためのウェルカム・セッション
第三日目
- パペット劇、コンサート、ダンス鑑賞
- シンガー・ソングライター、シェリー・モーリス
- 最後に女優デボラ・メイルマンと再会
ドリーミング・フェスティバルを振り返って
第一日目
いよいよフェスティバル会場へ
是非ともドリーミング・フェスティバルに参加したいと思った別の理由は、昨年のラッド首相の謝罪後、オーストラリアの先住民の人々の状況がどのように変化したのかを知りたいと思ったこと、また私の敬愛する女優デボラ・メイルマン(Deborah Mailman)、レイチェル・マザ(Rachel Maza)等、多くの演劇人に再会できそうだという情報を得たからであった。もちろん、世界的に例を見ないほどに多くの優れた劇作家を輩出しているアボリジニの人々の演劇をもっと知りたい、また新作戯曲の情報を入手したいということも大きな理由であった。
渡豪前にはフェスティバル会場には水が手に入らない、また宿泊は簡易なテントで季節が冬だから充分な防寒具が必要と聞いていたので、かなり厳格なフェスティバルというイメージを持って緊張してオーストラリアへの機中の時間を過ごした。そしてブリスベンに到着したのは、5日の早朝の7時過ぎだったので、さっそく水を多量に買い込んでボランティアの出迎えを待った。しかし出迎えに来てくれた女性から、このフェスティバルは開放的で、水や必要なものも手に入ると聞き、自分の妄想を笑い、正直なところ心底ほっとした。空港の外で南オーストラリア州の北西部から初参加する《リキナ・インマ・ダンスグループ》(Rikina Inma Dance Group)のメンバーを待ち、午後2時過ぎにようやく会場に向かった。
私はパースとアデレードで開催される1992年の国際演劇祭の下見で1990年に初めて訪れて以来12回も来豪しているが、内陸部に入ったのは今回が初めてであった。従って車中では、リキナ・インマ・ダンスグループの部族の言葉による楽しい会話に聞き惚れ、私の最愛のユーカリの木が繁る美しい光景に見とれ続けていた。
オープニング・セレモニー
フェスティバルの会場に到着したのは、午後5時過ぎ。宿舎だけでなく会場も全てテントであった。そしてその後、今日の最大のイベントであるオープニング・セレモニーが行われるセレモニー・グラウンズ(Ceremony Grounds)へと向かった。そこは、池のまわりがすり鉢状の芝生で、三方が客席となっていて、一方の土の部分が舞台という素敵な場所。夕闇の客席にはオーストラリアだけでなく世界各地からのおそらく数千人の観客がセレモニーの始まりを熱く待ち焦がれていた。
午後7時、いよいよセレモニーが開始された。まず開催地のジニバラ(Jinibara)の人々とその祖先への畏敬の念が語られ、そして「この特別な、そして平和で静かな場所に一同に集まって、エキサイティングなフェスティバルを行うことは本当に素晴らしいことです。皆さん、是非楽しんで下さい!」という言葉で観客からの大歓声が起きた。
次に芸術監督のローダ・ロバーツ(Rhoda Roberts)がオープニング・スピーチを行った。
「今宵、ここにオーストラリアの様々な地域から皆が集まってくれました。このドリーミング・フェスティバルの素晴らしいところは、私達がここに1つの家族として集まり、そして私達の故郷を高らかに歌い、素晴らしい先祖達・年長者達とその知恵に敬意を表して踊ることです。お集まり頂いた皆さんが、この家族の仲間になって下さることを本当に嬉しく思います。間もなく、パフォーマンスが始まりますが、皆さんにはこれが、普通では考えられないような大変な企画であったことを、ご理解頂きたいと思います。なぜならこれから登場するパフォーマー達は、このセレモニーの為に色々な地域から集まっている為、たった2日間しか稽古をすることができなかったからです。オーストラリア各地からの代表である130名の生徒達、サンシャイン・コーストからは60の学校が参加しています。アボリジニの子供達から成る《ゴンドワナ》(Gondwana)の子供合唱団、そこにはシドニーの子供合唱団の子供達やケーシー・ドノヴァン(Casey Donovan)も参加しています。」
そしていよいよパフォーマンスが始まった。池に設置された火が燃え上がり、約2時間に渡って繰り広げられた大地と深く繋がった歌、踊り、演奏には伝統的なものだけでなくラップなどもあり、その全てが私の魂を揺ぶり続けていた。
セレモニーの後、闇の中に灯るたくさんの出店やパフォーマンス会場を観てまわり、この時点でようやくこのフェスティバルの尋常ではない多彩な内容を実感した。そして、わずか2日で10以上の会場で並行して行われる膨大な催しから何を選ぶかを考え始め、茫然となった。午後11時すぎに懐中電灯を頼りに我がテントに戻り、防寒のために重ね着しマフラーを巻きつけ、必死でスケジュール表を眺めていた。しかし疲れに襲われ、いつのまにか眠りについた。
第二日目
レイチェル・マザとの再会
翌朝、鳥の声で目覚め、その後美しい自然を見ながらテントに戻ってくると、まさに神様の贈り物のように近くのテントの前に立っているレイチェル・マザの姿を見つけた。そのあまりの幸運に、私は思わず声を上げそうになった。
オーストラリアを代表する演劇人、レイチェルに初めて会ったのは、2005年、シドニーのベルヴォア・ストリート劇場(Belvoir St Theatre)で上演された『ザ・サファイア』(The Sapphires)の終演後である。
この舞台は、トニー・ブリッグス(Tony Briggs)が自分の母親を含むアボリジニの女性歌手がシュープリームスの曲をカバーして慰問のために戦争下のヴェトナムへ行った実話をもとに戯曲を書き、ウェズリー・イノックが演出した見事な公演であった。デボラ・メイルマンも出演していた。またNational Institute of Dramatic Art(NIDA:オーストラリア国立演劇学院)の前校長のオーブリー・メロー(Aubrey Mellor)とも会えるということだったので、思い切ってこの公演を観に渡豪したのであった。終演後に私が2001年よりオーストラリアの戯曲、特にアボリジニの劇作家の作品を日本で毎年上演していることを告げ、その舞台写真やチラシを見せるとレイチェル、デボラ、トニーも非常に喜んでくれ、演劇の話、社会の話を交わした。
レイチェルは俳優の仕事だけでなく、演出も手掛けている。日本でも公開された映画『裸足の1500マイル』(原題Rabbit Proof Fence)では子供たちの演技指導もしていて、現在はアボリジニの代表的な劇団《イルビジェリ》(ILBIJERRI)の芸術監督もしている、実に多才な演劇人である。今回の目的の一つには、『ザ・サファイア』の日本公演の可能性について彼女に相談したいということも実はあったのである。
ダンス会場 Dancestry
この幸運な再会の後、まずは野外ステージ会場のDancestryで行われる各国の先住民のダンスを観ることから始めた。会場に着くと芸術監督のローダが自ら清めの儀式のためのユーカリの枝を黙々と運び込んでいて、このフェスティバルを成功に導くための全体への気配りと、強い意志と、熱い想いがずっしりと伝わってきた。
その後、ユーカリの枝から立ち昇る煙に包まれながら繰りひろげられるダンスを観ていると、欧米的な作品としてのダンスとは異なる行為だと感じた。欧米の現代舞踊が技巧的で説明的で神経質なのに比して、大地と深く繋がった、シンプルに見えて、しかし強度のある動きは現代文明の中で人間が失ったものを突き付けてくるようであった。今、環境破壊が盛んに問題となっているが、体験してしまった物質の贅沢さへの執着をどこまで捨てることができるのか、何が幸福なのか、何が愛なのか、さまざまな問いを提示されたように思う。
芝居『ペイジ・エイト(Page 8)』公演
午後は映画の会場Kula Filmsで話題のドキュメント映画『最初のオーストラリア人たち』(First Australians)を観、2時から演劇公演の『Page 8』を観た。これは今回上演される演劇の中で最もスタッフから薦められた作品で、2004年にシドニーのベルヴォア・ストリート劇場で初演されたデヴィッド・ペイジ(David Page)の一人芝居である。自らの人生を描いたこの作品は、オーストラリアを代表する劇作家のルイス・ナウラ(Louis Nowra)とデヴィッドによる共作で、タイトルの「8」は、ペイジ・ファミリー(Page Family)の8番目の息子を示している。
ペイジ・ファミリーに関してはシドニー・オリンピックの開会式やアデレード・フェスティバルの芸術監督を務め、ダンスグループ《バンガラ・ダンス・シアター》(Bangarra Dance Theatre)の代表のスティーブン・ペイジ(Stephan Page)と会ったことがあった。また私が2003年に日本で上演した『梯子を昇れ』(Up The Ladder)に出演してくれたカーク・ペイジ(Kirk Page)が親戚だったので、今回の作品で彼らの活動をより深く知ることができるのではという大きな期待があった。
プログラム記載の解説は次の通りであった。
「デヴィッド・ペイジは、作曲家、ドラッグ(女装)アーティスト、そしてアボリジニのコンテンポラリーダンスカンパニー《バンガラ》のシニア・コラボレーターであり、才能あふれるペイジ一家の中でも最も有名な人物である。
『Page 8』では、ブリスベンの郊外にあるMount Gravattに住む一家の12人兄弟の8番目として育ったデヴィッドが、いかにしてオーストラリアのマイケル・ジャクソンと呼ばれるようになったのかが、生き生きとそして感動的に描かれる。小さい頃のデヴィッド少年は、歌も踊りも何でもできると評判の子供だった。そしてまだ年端のいかないデヴィッドは、テレビ番組『カウントダウン』(Countdown)や『ポール・ホーガン・ショウ』(The Paul Hogan Show)に出演し、声変わりをするまでの間に、そのシングルは2度もトップ10入りを果たしたのである。しかし、その後十代になった少年は自分の将来や性にも疑問を持ち始め、自分探しをするようになった。こうした少年時代を経て、デヴィッドは大人になり、《バンガラ》の作曲家として活躍するようになったのである。
この自伝ともいえる作品には、ストーリー・テリング、音楽、『カウントダウン』の古き良き時代(1974年~1987年まで放送)、家族の記録映画、女装といった様々な要素が見事に入り混じっている。そして、ルイス・ナウラという情熱的で、芯が強く、そして美しいエネルギーに溢れた作家とテキストは共同で執筆され、デヴィッドの弟であるスティーブンが演出している。」
ブラック・ドラマティクス(Black Dramatics)と名付けられた大きなテントが演劇の会場で、仮設の客席には前評判を聞いた多くの観客が詰め寄せていた。舞台セットは中央奥に大きなタンスがあり、その扉に子供時代からの記録映像が投影されながら劇が進行していく。圧巻はやはりデヴィッドの歌と踊りで、公演の最終シーンでタンスの扉から女装してあらわれたデヴィッドの圧倒的な踊りは、観客を熱狂の渦に巻き込んだ。終演後、楽屋に挨拶にいくと彼がまるで子供のような微笑みで答えてくれた。この作品から感じたことは、非先住民の人々に対してだけでなく、アボリジニ社会に対しても多くの問いかけと、性に関する偏見をとり去るための挑戦を含んだものであったに違いないということである。
ローダ・ロバーツ芸術監督とのミーティング
その後は、各地の伝統的な手法のアボリジニ絵画のギャラリーや、工芸品を作るワークショップを見学し、またコンサートを聴いて回り、午後5時にゲストルームの外の木陰のテーブルでのオーストラリア・カウンシルのマーケティング部門のボウ・キャンベル(Bow Campbell)とフェスティバルのローダ・ロバーツ芸術監督とのミーティングが実現した。まず、持参した私の演出したアボリジニ作品の写真をローダに見てもらい、なぜ私がアボリジニの劇作家の作品を上演し続けているのか、その理由を話した。植民地政策による問題を知りたいということだけでなく、それらの作品が戯曲として優れていること、また普遍性を持っていること、そして現在の日本の観客と、私自身にも必要なものを与えてくれるからだと告げた。
ローダは、私の言葉をかみしめるように聴いてくれ、様々な先住民の作品を教えてくれた。またこのフェスティバルに、彼女が敬愛する素晴らしい音楽家が参加していることも教えてくれた。その間、ボウが丁寧にサポートしてくれ、今後の交流の深化を誓いあってこの日のミーティングは終わった。自然に囲まれ、夕陽を浴びながら素晴らしい対話の時を過ごせたことは、今も忘れられない。
ゲストのためのウェルカム・セッション
午後5時45分からはディンゴ・シェッド(Dingo Shed)会場で、ゲストに対するウェルカム・セッションが行われた。会場に着くと、昨年ブリスベンで開催された《全国劇作家フェスティバル》(National Play Festival)でお世話になった《全国劇作家協会》(PlayWrighting Australia)の芸術監督のクリストファー・ミード(Christopher Mead)やCommunity Development officerのスザンナ・ダウリング(Susanna Dowling)も来場していた。スザンナには、昨年よりオーストラリアの新作戯曲を紹介し続けてもらっているのでそのお礼を告げ、今後の交流の発展についての会話を交わした。
ウェルカム・セッションでは今回のフェスティバルに関しての重要な言葉が多くあったので、ここにご紹介しておく。
まずウッドフォード民族フェスティバル(Woodford Folk Festival)の委員から挨拶があった。
「今回の目的は、皆様にこの美しくて穏やかな雰囲気の中で、是非アボリジニの人々、文化そしてその特別な想いを感じ、持ち帰って頂きたい、というものです。今年は、チケットが約600,000豪ドルも売れました。メディアによる広告宣伝を行わずに、これだけの売り上げを記録することができたのは、アボリジニの文化への関心・敬意の高まりの表れだと思います。」
続いてクイーンズランド民族連盟(QFF)のマネジメント委員会のメンバー、マイケル・ウィリアムス(Michael Williams)のスピーチ。
「私は第1回目のドリーミング・フェスティバルから、QFF の皆さんと共にフェスティバルに関わってきましたが、先住民の人々の魂、熱気(スピリット)は年々高まっており、その存在もより認識されるようになってきています。そして世界中からこのフェスティバルにやってくる人の数も年々増えています。
QFFにおける私の使命は、より多くの人々が先住民の文化を体験し理解するように働きかけることです。そしてさらには、世界各地にいる私達の兄弟たちとコンタクトをとりあい、結びつけることができたら、と考えています。
年月を重ねるにつれて、私達先住民の文化の”核”である祖先達の魂は、あたりを見回すと至る所に存在している、という想いが強くなってきました。私達は、精霊や魂を感じ、求めています。そしてそれは、大きな都市に暮らす人々も同じく感じることができるのです。なぜなら、私達の文化は、形を変えてそこに存在しているからです。
小学生だった頃、母親や周囲の年配者、そして家族が話してくれた物語(ストーリー)。彼らは、そういう物語にこめられた知恵をどうやって活かすかということも教えてくれました。こういった物語を子供達に語り継ぐことで、そしてその知恵・伝統を守り、受け継いでいくことこそが、私達先住民の文化なのです。
このドリーミング・フェスティバルは、芸術を通して年長者との絆を強め、そして手を取り合って共に未来へ歩き出そうというものです。この祭典は、私達の文化を世界の人々に紹介し、知ってもらう大変重要な機会なのです。より多くの人が、先住民の文化、そして継承されてきた知恵、その価値を知ってくれることを私は望んでいます。
祖父や父から託されてきたこの土地は、今も私達を癒してくれます。その上に横たわり、その上を歩く私達を癒してくれます。私が今こうして生かされているのも、受け継がれてきた素晴らしい贈り物のおかげです。私は祖父からもらった宝物を、自分の孫や家族へ渡すことで全てを私達のこの土地に返したいと願っています。そして、このようなフェスティバルというのは、アボリジニの人々が心に抱いている国や文化、知識に対する熱い思いを、世界の人々が知ることができる素晴らしい機会なのです。」
次のスピーチは、オーストラリア・カウンシルのアボリジニ・トレス海峡島しょ民芸術委員会( Aboriginal and Torres strait Islander Arts Board)のリディア・ミラー(Lydia Miller)が行った。リディアは、女優としても活躍しており、私が初めて会ったのは2004年にシドニーのオーストラリア・カウンシルにおいてであった。
「私達は、今日世界で何が起きているのかを理解し、お互いに関係性を築いていかなければいけません。そして、そこで芸術と文化の果たす役割とは何なのでしょうか。
今世界でなされている多くの対話・対立の根底にあるのは、土地、財産の獲得、いかにして権力・富・資源・経済力を手に入れるかという考えばかりです。そしてそこには、裏切りが生まれます。なぜ、不当に奪った土地が正当化され、他の人間を迫害すること、排除することが正当化されてしまうのでしょうか。そういった対立や争いの言葉を超越する「言葉」を、芸術と文化は私達に与えてくれます。そしてその「言葉」によって私達は絆を深めることができます。思う、考える、見る、感じる、理解するというのは、人間の素晴らしい能力です。音楽・ダンス・演劇・ビジュアルアート・写真・シンボル、文章などといった芸術、文化によって、私達は言葉の壁を越えて結びつくことができるのです。
互いにコミュニケーションを取りたい、関わりを持ちたいという欲求が私達人間の心理の根底にあり、まさにそこから芸術・文化は生まれました。このドリーミング・フェスティバル、オーストラリアという国のこの地域にフェスティバルを見に来て下さり、先住民の文化を知ろうとしてくれる人達を私は大変嬉しく、誇りに思います。このフェスティバルでは様々なパフォーマンスが行われますが、それらを通して私達は一つになって紡ぐことの出来る糸を見つけることができます。
そしてこのような芸術を通して、皆さんは先住民の人々が語りかけてくることを理解するでしょう。クリエイティブな表現を通して、先住民の人々の感性、感情を理解することができるのです。そしてそれこそが活発でエネルギーに満ちた「対話」なのです。オーストラリア・カウンシルのアボリジニ・トレス海峡島しょ民芸術委員会は、この国の文化の発展を促進し、それを通じて先住民がその文化遺産を維持、管理し、高められることを目的として設立されました。
私達の役割は、この国がこれまで経験してきたことやそこから得たものを守っていくこと。そのためには、先住民の人々に敬意を表すだけではなく、積極的な対話が必要なのです。それはつまり、それぞれの立場における文化的なアイデンティティーを尊重し合う、国境を越えた”異文化間の対話(インターカルチュアル・ダイアローグ)”であり、互いに理解し協力することです。
戦争は人間の心の中で始まります。私達はそういった人々の心の中に、平和、安らぎを見出していきたいのです。文化や対話によって、私達は互いに向き合い未来についての話を始めることができます。そして、自分達、さらには次の世代のアイデンティティーも形作ることができるのです。そのアイデンティティーとは、私達が祖先から受け継いできたもの、自分達が何者で、どこへ向かい、そしてどこからやってきたのか、ということです。
オーストラリア・カウンシルは、創造性に満ちた、ドリーミングを始めとする素晴らしいフェスティバルをサポートすることで、マスメディアや情報社会の枠組みを超えて、私達のアイデンティティーが継承されていくことを望んでいます。そしてフェスティバルを通じて対話が活発に行われ、世界の様々な地域から来て下さった皆さんに、オーストラリアで今何が起こっているのかを知って頂きたいと思っています。また同時に、皆さんの国、文化についても聞かせてほしい、その対話によって、これから共に紡いでいける糸を見出していきたいと思っています。
皆さん、是非対話をして下さい。そして心の中に生まれた想いを大切に育んでください。そうすれば、アーティストとして、そして文化人として理解しあい、ともに歩み始めることができるはずです。」
続いて芸術監督のローダのスピーチ。
「皆さん、この特別な4日間のために来て下さって本当にありがとうございます。私達は心から皆さんを歓迎します。このドリーミング・フェスティバルは過去を振り返ることであり、そして今現在を見つめることであり、そして未来を見据えることだということ、それだけをここでは皆さんにお伝えしたいと思います。
これから始まるシェリーの歌は、私の言葉よりもずっと素晴らしいことを皆さんに伝えてくれるはずです。多くの皆さんとお会いしてお話できるのを楽しみにしています。」
最後にシンガー・ソングライターのシェリー・モーリス(Shellie Morris)の挨拶の後、彼女が自作の歌をギターの演奏で唄った。
「この素晴らしいフェスティバルに参加させて頂き、本当にありがとうございます。さあ、物語(ストーリー)を皆さんも一緒に聞いてください。これから唄う歌は、“Big rains coming”という意味の歌です。」
今回のフェスティバルで最も衝撃的な出会いが彼女の存在であった。心を揺すぶられる声の力強さと不思議な人懐っこさに魅了され、セッションの後、ゲストルームで少しだけ会話をしたが、彼女の素晴らしさに本当に気付いたのは翌日の彼女のコンサートを聴いた後であった。
第三日目
パペット劇、コンサート、ダンス鑑賞
3日目に最初に観たのは、子供たちのための《ヤラムンディ・キッズ・パペット》による人形劇。アボリジニの子供の人形を使ってアボリジニの歌を唄い、観客と対話し、映像を通して現状を伝え、非先住民の子供たちに先住民への偏見をなくし、友情を持ってもらおうとするものである。
次にレイチェル・マザとその妹のリサの《マザ・シスターズ》(Maza Sisters)によるコンサートのある会場AlterNative Loungeへ。会場には先住民の仲間達も駆けつけていて、二人が子供の頃に唄っていた先住民の童謡や、『ザ・サファイア』の劇中歌なども唄われ、観客とともに楽しい合唱が繰り広げられていった。
その後は、ジャマイカから参加されているダンスグループによるワークショップへ。教材となっているのはマンゴーを摘む仕事のしぐさから生まれたダンス。まず右手を揚げてマンゴーの実を摘み、篭にいれ、次に左手を揚げてマンゴーの実を摘み、篭にいれるというシンプルな動きを「マンゴー!ダンス!」というレゲエ風のリズミカルな掛け声と共に全身で踊り続ける陽気な内容である。いつのまにか観客全員が声を上げ無邪気に踊り始め、思わず私も踊っていた。ダンスとは技術ではなく、体と心を動かす喜びから生まれるものだということを再確認したように思う。
シンガー・ソングライター、シェリー・モーリス
それから昨夜のウェルカム・セッションで聴いたシェリーのコンサート会場へ向かった。その途中に先住民の作家の書籍や、写真集を販売しているテントで彼女のCDを見つけ、また映画会場で観た『最初のオーストラリア人たち』(First Australians)も見つけ、購入。
コンサート会場にはすでに入りきれないほどの観客があふれ、シェリーが登場すると大歓声が湧き上がった。シェリーは、ギターの弦に耳を近づける独特な弾き方で、音と声の一つ一つが魂をもって伝わってくる。
演奏が終わり、どうしても感動を伝えたくてテントの裏の楽屋に行った。彼女のスピーチに、歌の内容に、歌声に、心の底から感動したことへの感謝の気持ちを告げると、満面の笑みを浮かべて喜び抱きしめてくれ、私も抱きしめてしまい、何故か思わず涙が浮かんできた。
頭の中に歌声が繰り返し甦ってくるままゲストルームに戻り、オーストラリア・カウンシルのボウにシェリーのコンサートに感動したことを告げると、「昨日ローダが敬愛する素晴らしい音楽家と言っていたのがまさにシェリーだよ。」と教えてくれた。
シェリーは1965年にノーザン・テリトリー(北部準州)の北部で生まれたが、シドニーの白人の家の養女にもらわれた。少女時代に音楽に没頭し、フルートやピアノやオルガンを勉強。聖歌隊で歌い、10代の終わりにはオペラの訓練も受けたとのこと。しかし、1997年に出生地のノーザン・テリトリーの州都ダーウィンに移り住むことを決意。それは自分のルーツを知りたいという思いがつのってのことであり、本当の家族と会うためであった。
《フォロー・ユア・ドリームス》(Follow Your Dreams)というメルボルンを本拠地とする団体のメンバーとしてダーウィンと周囲の大学、学校でアボリジニの若者の教育に従事。しかし、音楽への想いは断ち切れず、ショッピングセンターなどの路上でパフォーマンスを始め、この路上での活動がきっかけとなり、ノーザン・テリトリー大学で本格的にコンテンポラリーミュージックを学び、シンガー・ソングライターとしての活動を始めた。この間、路上での活動を通して血縁の家族達と再会を果たしたそうだ。1999年にソロコンサートを行い、2000年には最初のアルバム『シェリー・モーリス』(Shellie Morris)を出し、2006年には『スウェプト・アウェー』(Swept Away)を作り、ダーウィンでの人気は絶大なものとなった。2008年には、メルボルン・シンフォニー・オーケストラと共演し、アボリジニのトップクラスグループ《ブラック・アーム・バンド》(Black Arm Band)と共に活動も行い、今年2009年にはシドニー・オペラ・ハウスでジェフリー・ガールムル・ユヌピング(Geoffrey Gurrumul Yunupingu)とのコンサートも行っている。またそれにあわせてシェリーの人生と音楽についてのドキュメンタリーフィルムがオーストラリア国内で放送されている。
シェリーの活動は音楽にとどまらず、子供たちに読み書きを教え、若者たちの教育活動も続けている。またアフリカのリベリア共和国からの難民とオーストラリア先住民女性のコラボレーションによる音楽活動、《Liberty Songs》にも参加。また、オーストラリア・アフリカ・アジア・太平洋地域における盲目予防・防止活動を行っている《フレッド・ホローズ財団》(The Fred Hollows Foundation)の大使も務め、さらに、オーストラリア全域の先住民の人々・若者のコミュニティに加わり、若者達が自分の経験から音楽を生み出していく活動のサポートも行っている。
いずれの活動も彼女にとってはとても大切で夢中になるものであり、彼女は次のように語っている。
「フレッド・ホローズの仕事があるからこそ、私は歌手としてより豊かな物語を歌うことができるのです。そしてこの仕事は私の人生の支えとなっていると思います。私はたくさんの場所を訪れていますが、私がそこへ行くのは、1人の人間として私が私であるためにそれが一番大切なことだからです。そしてそこでみんなと一緒に働くこと、歌詞は彼らの言葉と英語とがあるのですが、そこから音楽や歌が生まれコミュニティ全体に広がっていくためなのです。ある年配の女性は、私に彼らの言葉を教えてくれました。それは本当に素敵な時間でした。ですからこれは私の人生において愛すべき仕事の一つであり、そのどちも(歌手としてのパフォーマンスとフレッド・ホローズ)も決して欠くことはできないのです。
「育ての父と母は私に、自分のルーツを探すように言ってくれました。両親はそれをとても大切なことだと考えていましたし、私も彼らの考えは正しかったと思います。」
アボリジニとしてのルーツを探ることで、シェリーは、曲をつくる上で多くのインスピレーションを得たようである。
「先住民の土地でのたくさんの経験が本当に私を助けてくれました。私は素晴らしい女性達とそこで出会いました。彼女達は力強い文化を持っていて、私達がこうありたいと願うものをたくさん持っていました。彼女達はとても美しく、賢明で寛容であり、かつとても強い。私は本当に彼女達を誇りに思っています。」
「昔のように、私は音楽を通して物語を伝えているのです。ただ、私はそれを現代のメロディーラインに乗せて歌っているのです。ですので、いわゆるウェスタンミュージックとは全く別のものです。私のパフォーマンスには強い力があると思います。それは私の本当の気持ちを伝えているからです。普通に暮らしている人々の多くや、船をおりた漁師さんまでもが、涙を流してくれました。」
シェリーの活動は、先住民社会の中の出来事をこえて、世界中に多くのことを語りかけてくれるように思う。
プレス記事によればこれまで彼女が音楽業界に与えてきた影響はとても大きく素晴らしいもの、と記されている。シェリー・モーリスの公演プレス記事
最後に女優デボラ・メイルマンと再会
離れがたい気持ちで帰国の空港へ向かう車を待っている間、片隅のソファーにデボラ・メイルマンが座っているのを見つけた。彼女は私が挨拶するより先に、満面のやわらかな微笑みを送ってくれ、この旅の最後に大きなプレゼントをもらったように嬉しくなった。
デボラ・メイルマンは、アボリジニの女優として初めてオーストラリアで最も権威のある映画賞AFI(the Australian Film Institute)最優秀女優賞を『レイディアンス』(Radiance)で受賞し、連続テレビドラマ『私たちの秘密の生活』(Our Secret Life)では非先住民の人気俳優と共演し国内で最も知られた存在の一人となっている。もちろん舞台での活躍こそ彼女の本領。先述したアボリジニ演劇のホープであるウェズリー・イノックと共作の一人芝居『嘆きの七段階』(The 7 Stages Of Grieving)は、1997年にシドニーのオペラ・ハウスで上演され、その年にロンドン国際演劇祭で上演され、翌98年にはスイス国際演劇祭でも上演されている。
2001年に『嘆きの七段階』の上演ビデオをウェズリーから受け取り、初めてデボラの演技を観た衝撃は今でも忘れられない。ドリーミングの時代から現在にいたるアボリジニの歴史を七つの段階に分け、植民地政策による哀しみや、怒り、アボリジニ社会内部の葛藤を伝統的なストーリー・テリング(口承)の手法で描いたこの作品を、彼女は見事なたたずまいとユーモアと意志で演じていた。アボリジニの多くの演劇人と同様に、西洋の演劇を必死で学び、そこにストーリー・テリングを持ち込んだことは、大いなる意志であり、抵抗であり、密室的な現代劇の形態への提言だと思う。演劇の原点は人間が手ぶらで向かい合い、交信し、交歓し合うことだと私は思っているのだが、彼女はまさにそのことを愛情と勇気をもって実践していた。演劇に技術は必要だと思うが、彼女の舞台を観る度に、常に技術をはるかに超えた出来事を願う魂が伝わってくる。
2005年に『ザ・サファイア』でお会いした後、2007年に私が日本でウェズリー・イノック氏の作・演出で『クッキーズ・テーブル』(Cookies Table)を国際共同制作上演し、日本の観客が非常に喜んでくれ、多くの批評家がその年のベストワンに選んでくれたこと、また『嘆きの七段階』のビデオを日本各地の演劇人と会う度に今も観てもらっていること、彼らが新鮮に感動してくれていることを告げると、心から喜んでくれた。いつか日本の多くの人に彼女の生の舞台を観てもらいたい、その願いは今も強く続いている。
デボラにその願いを告げ、別れた後、オーストラリア・カウンシルのボウとシェリー・モーリスと最後の話をした。シェリーにも是非チャンスがあれば日本でコンサートをして欲しいという気持ちを告げ、ボウには、今後の交流のための助言をお願いした。
最後にローダ・ロバーツに感謝の気持ちを伝えたくて携帯電話をかけると、どうしても直接挨拶したいと駆けつけてくれ、強く抱きしめ合って、もう一度これからの交流を誓いあい、感謝の言葉を告げ、空港へ向かう車に乗り込んだ。
ドリーミング・フェスティバルを振り返って
わずか3日間の滞在ではあったが、今回のドリーミング・フェスティバルでは多くのことを学ぶことができた。そしてこれからもオーストラリアの演劇人と連絡を取り合い、交流を深めてゆきたいと思っている。その後、ローダが教えてくれた西オーストラリアのアボリジニの劇団とも連絡が取れ、戯曲が届き始めた。いずれまたご紹介できれば幸いだ。
日本は文化芸術に関しては、いまだに欧米崇拝の状態。なぜ植民地政策によって支配された南半球に関心を持たないのか不思議でならない。先住民文化というと何か劣った野蛮なもののように今でも語ってしまう人々が多くいるが、戦争の歴史や環境破壊の問題を考えればどちらが野蛮かは、明確である。
2001年よりオーストラリア文化の研究家であり劇作品の翻訳家でもある佐和田啓司氏や、その後翻訳家・劇作家の須藤鈴氏の協力も得て、毎年オーストラリア戯曲を上演しているが、まだまだ先入観や偏見や無視など多くの障壁がある。2009年6月に開催した《第1回 日韓演劇フェスティバル》において韓国の若手劇作家が「人間はみな心に傷を持っています。だから演劇が必要なのです。」と見事に語ってくれたが、今回のドリーミング・フェスティバルで感じたことも同様のことであった。文化とは何か、なぜ文化が必要なのか、この度のフェスティバルにおいて、そのことを日本で充分に話し合うことの重要性を痛感した。
「20世紀は哀しみを忘れた時代」と言われたが、21世紀の今も戦争や差別や格差が蔓延している。ドリーミング・フェスティバルはその現実への偉大な問いかけであり、解答だと思う。
(今回のレポートを書くために、演劇の通訳をされている時田曜子さんに多大なご協力を頂いた。)