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日本とオーストラリアは、第二次大戦における敵対関係という重大な危機を経験しましたが、戦後、両国関係は進展し、貿易や観光、教育といった分野での協力関係が緊密化しています。
日本人が初めてオーストラリアの地に足を踏み入れたのは19世紀の終わりのことです。彼らはクイーンズランドのサトウキビ産業に従事するため、アジア太平洋諸国の多くの人々と共にやってきました。その多くは熊本県、和歌山県、広島県の出身でした。
また1880年代には日本人ダイバーがオーストラリア北部および北西部で真珠採取に従事しました。そのほとんどは和歌山県から来た人々で、その後30年ほどは日本人移住者の大半を占めていました。多くは自分の船を持ちブルームを中心とする北部沿岸一帯で働きました。日本人潜水夫はその能力と勇気でよく知られ、尊敬されていました。今日この地で行なわれている真珠祭りは当時から伝えられているものです。
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ブルームの日本人真珠採り潜水夫 © The Australian War Memorial |
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現在のブルームでの真珠養殖 © Australian Tourist
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日本とオーストラリアを結ぶもう一つの興味深いつながりは、1905年、家族と共にビクトリア州に移住した高須賀穣(たかすが ゆずる)氏に始まりました。高須賀氏はもともと農業の専門家ではありませんでしたが、稲作に非常に興味を持っていました。彼は移住後すぐに、オーストラリア政府を説き伏せて土地を譲り受け、当時のオーストラリアでは全く新しい農作物であった稲の試験栽培を開始しました。 |
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高須賀夫妻 / © SunRice Australia(Ricegrowers Co-operative Limited) |
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何年もの苦労の末、やっと栽培に成功し、高須賀氏とその家族はこの地方でよく知られ、尊敬されるようになりました。オーストラリアの米作りはこうして日本人、高須賀穣氏によって始められたのでした。
現在、ニューサウスウェールズ州南部のリバリナ地方では長粒種と中粒種の両方の米が生産されています。最も多く生産されているのはジャポニカ系中粒種で、これは日本の標準米と非常によく似ています。オーストラリアで生産される米の約90%が輸出されており、40か国以上ある輸出相手国のうち主な輸出先は、パプアニューギニア、太平洋諸島、香港、中東諸国などで、最近は少量ですが日本にも輸出されています。
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1911年にオーストラリアにいた日本人は男性が3281人、女性が208人でした。30年後に太平洋戦争が始まった時点でまだオーストラリア国内に残っていた日本人は、戦争が終わるまで収容所に入れられました。
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