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日豪両国は第一次世界大戦中は共に連合国側で参戦しました。日本海軍の船、イブキはオーストラリアの軍隊をエジプトまで護衛しました。しかし、1941年末からの第二次大戦では敵対関係に入り、アジアやニューギニアのジャングルで3年半に及ぶ交戦状態が続きました。
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マレーシア全土に進撃した日本軍は、1942年にシンガポールの英国軍基地を攻略し、13万人以上を捕虜にしました。このうちの1万5000人はオーストラリア兵で、ほとんどが東南アジア地域の日本軍収容所へ移送されました。収容所での捕虜に対する扱いはひどく、第二次大戦中を通して日本軍に捕らえられたオーストラリア人2万2000人のうち、3分の1は日本軍の捕虜収容所で死亡しました。この他に3095人のオーストラリア人兵が、不成功に終わったシンガポール防衛作戦中に戦死、あるいは負傷しました。さらに、このシンガポールでの戦闘直後、日本軍は北部準州(ノーザンテリトリー)のダーウィンと、西オーストラリア州のブルームで空爆を始めました。 |
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小泉首相の献花(2002年5月、キャンベラの戦争記念館にて) © Auspic Australia |
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それから1年半の間に渡り、ダーウィンには64回の空襲があり、54機の爆撃機が襲来したこともありました。また、オーストラリアの東海岸は、日本軍の潜水艦による攻撃を受け、シドニー湾に小型潜航艇(せんこうてい)が来襲、ニューカッスル沖で、医療船のセントールが撃沈されるなどの事件がありました。
一方、オーストラリア国内では、戦争中、男性、女性、子供を含めて千人以上の日本人が収容所に入れられました。この半数以上は、ブルームで真珠貝を採取していた潜水夫でした。その後、何千人もの日本人兵が捕虜として収容所に加えられました。これら日本人兵の捕虜数百人が引き起こした、オーストラリアの軍事史上にも他に例をみない事件がカウラ脱走事件でした。ニューサウスウェールズ州中部にあるカウラでは、第二次世界大戦中、約4000人の捕虜が収容され、このうち、日本人兵捕虜の数は1100人以上でした。1944年8月5日の未明、事前に決められていた合図を受けて多数の日本人兵捕虜が鉄条網めがけて突進し、集団脱走をはかりました。378人が収容所から脱走しましたが、これ以外に脱走の途中で死亡したり、また脱走に加わらなかった者も多くいました。脱走した兵士のうち334人は事件後9日以内に捕らえられましたが、中にはカウラ(地図中に示す)から24kmも離れたところまで逃げた者もいました。このカウラ脱走事件の結果、死亡した日本人兵の数は231人、負傷したのは108人で、自殺者も多数出ました。一方、オーストラリア側も、4人が死亡し、4人が負傷しました。
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第二次世界大戦中のカウラ:日本人捕虜収容施設 / © The Australian War Memorial |
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カウラの日本庭園 / © National Archives of Australia A6135, K15/2/80/2 |
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1945年8月の終戦までに、日本との戦争で死亡したオーストラリア人の数は1万7501人にのぼり、これはドイツとイタリアとの戦争で死亡した人数のほぼ2倍にあたります。この戦争はオーストラリア人の心に深い傷痕を残し、それからしばらくは多くの人々が日本に対して激しく憤りの念を抱いていました。しかし、時を経るに連れ、こうした感情も和らぎつつあります。現在カウラには戦没者霊園や日本庭園、日本文化センターがあり、これらはこの地で亡くなった人々への慰霊であると同時に、日豪両国の緊密な友好関係の象徴ともなっています。
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