Welcome to the オーストラリア大使館のカルチャーセンター

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カルチャー・センターは2013年2月末で廃止となり、それ以後はこちらへ移行しました。


「占領の子供たち」

ジャーナリスト ウォルター・ハミルトン

2012年10月25日 オーストラリア大使館

今晩は。これは聖堂でしょうか。難破したUFOでしょうか。

これはかつて横浜郊外にあった競馬場の正面特別観覧席の一部なのです。

第二次大戦後、この以前競馬場であった場所は今でもアメリカ軍によって使用されています。

なぜこのような事を申し上げたかといいますとこの近くに過去の名残があるのです。今朝私は1880年に作られた根岸外人墓地に行ってきました。

ここには無縁墓地があり、その中には800人もの占領下に見捨てられた嬰児の墓地があります。この子供達の父親は外国の兵士でした。

NHKの朝のドラマ「純と愛」を始めテレビ娯楽番組ではハーフの芸能人が目立った活躍をしています。日本の人口が横ばいの現在、国際結婚は増えています。今は、格好いい、可愛いと受け止められている「ハーフ」ですが、ずっとこうだった訳ではありません。

私はこれから日豪関係の歴史の中で語られる事のなかった話をさせていただきたいと思います。私がこのように招待を受け、話す機会をいただいたという事は日豪関係が成熟してきた証だと感じております。このような機会を下さいましたホストのダラ•ウイリアムズ公使と大使館の徳仁美さんにお礼を申し上げます。

Walter Hamilton
Walter Hamilton
Walter Hamilton

1945年日本の第二次大戦降伏後、オーストラリアは太平洋での戦後処理に大きな役割を果たしました。アメリカが連合国の政策決定に主力を置きましたが、オーストラリアは政治経済改革の執行、戦争犯罪人の処罰、日本軍の非武装化などに直接関与しました。英連邦占領軍が1946年初め日本に到着した際、その指揮官はオーストラリアの将軍、サー•ホラス•ロバートソンでした。

英連邦占領軍はイギリス、インド、ニュージーランド、オーストラリアから約4万人の兵士を送りこみました。本部を爆撃を受けた広島県の港町呉に置き、西日本の9県を担当しました。他の連邦国軍が去った後もオーストラリア軍は実に10年に渡り日本での駐留を続けました。

英連邦占領軍は日本女性との交際禁止策を取っていたため、兵士は日本女性との結婚許可を受けることができませんでした。これに違反して子供が生まれたことが見つかってしまったり、または兵役期間が終わった場合、兵士は強制的に家族から離される事になりました。1952年この禁止令は解かれ、何百人もの戦争花嫁がオーストラリアに向かいましたが、多くの人に取ってこれは遅すぎた措置でした。

連合軍は日本の雑誌、新聞に対し占領軍の子供に関する記事を検閲していましたがこれが解かれました。それまではタブーとしていたのです。この結果、皮肉なことに人々がこの話題に過剰に反応するケースも起こりました。当時混血児と呼ばれた子供達の数を20万人にも達すると広く報道されたりしましたが、実際には1万人くらいでした。なかでも「黒い日本人」の出現が一番心配の種となりました。

アメリカ政府は1953年、この懸案を解決するためアメリカ人家庭にこの子らを養子に迎える道を開きました。この措置により2000人以上の子供がアメリカに渡りました。しかしオーストラリア政府は「いわゆるあいの子」はオーストラリア社会に融合できないだろうとの理由で養子縁組には反対の立場を取りました。

唯一この網の目をくぐったのが2歳のこの男の子です。一人のオーストラリア兵がこの子を養子にし、国に連れ帰りました。ピーター・バッドワース(日本名英樹)はオーストラリアに見事に順応しオーストラリア連邦警察の幹部となり総督から勲章を与えられました。

養子縁組に関する厳しい措置への批判に答えるため、オーストラリア連邦内閣は1962年、呉に残された子供達の世話していた、国際的な事業団体であるISS日本支部に資金援助を始めました。同時にオーストラリア国内からは多くの個人が寄付を寄せました。

Walter Hamilton
Walter Hamilton
Walter Hamilton

17年に渡りISSの呉プロジェクトは、カウンセリング、経済援助、奨学金など100人以上の子供の世話をしました。そのうちの半分はオーストラリア人が父親だとみられています。ただしこれが日本に残されたオーストラリア人を父とする子供のすべてという訳ではなく、私は100〜200人くらいではと推測しています。

20%から30%の父のない子供達は、海外に養子に行ったり、卒業後海外に行ったり、もしくは孤児院に引き取られました。その他の子供はそれぞれの地域で育ちました。日本にとどまったのですが、社会経済的に低い階層に属していたという理由もあり大変な差別と戦いました。けれども当初の心配に反し、彼らの人生が不幸であり、非生産的であったという訳ではありません。

ジョージの父は1949年秘密裏に結婚しました。オーストラリア人の父が朝鮮戦争で死亡する6ヶ月前にジョージは生まれました。残されたジョージの母は赤ん坊を老夫婦に預け、いなくなってしまいました。ISSは救済にあたりましたが社会の子供達に寄せる敵意は性格の良いジョージが不良化するのを防ぐ事はできませんでした。

ジョージの最大の幸運は若くして結婚し、3人の立派な息子に恵まれた事でした。ジョージの人生の立て直しをはかったくれました。数年前ジョージは40年の沖仲仕としての名古屋港での仕事を退職しました。2007年オーストラリア訪問時に見つけた父親の写真を仏壇に置き、毎朝手を合わせています。

この写真は吉田和美です。母親の美津子は呉の軍曹の食堂でウェイトレスとして働いていましたが、そこで和美の父親と会いました。1947年11月、和美が生まれる前に父親はオーストラリアに帰国し、連絡は途絶えました。

和美は日本人に見えるため学校では他の呉の子供ほど大変ではありませんでしたが、経済的苦労は大きいものでした。あまりの生活苦のため心中を考えた母親を思いとどまらせたこともありました。

娘の幸せの為にはオーストラリアへ行った方が良いと信じた美津子は1965年、元オーストラリア兵の結婚の申し込みを承諾しました。

これが今、メルボルンで母親と娘二人の和美(右)です。

この写真が撮られた直後和美は生涯の夢を実現する事ができました。次女の助けにより実父が見つかったのです。既に亡くなっていましたが、父親が日本に到着した時には結婚していて4人の子持ちだった事がわかりました。和美はこの異母兄弟達に連絡を取り、新しい家族から大変暖かく迎えられました。

こういった「シンデレラ」物語は例外です。この写真の少女は18歳の時妊娠しました。少女はこの精神的苦痛から生涯逃れる事ができませんでした。

娘の真弓は伯母の養女となり、父親について名前すら知らずに成長しました。それにもかかわらず真弓は呉キッズのリーダー的存在となり、ISSからの援助もあり、大学を卒業し立派な仕事につきました。

正明の父親は息子が6歳になるまで日本に留まりました。日本人妻を本国に連れて帰るという事に対処できない兵士もいました。一方「価値ある日本人」になると決めた残された少年は、学校で自分がランニングに秀でている事を知りました。スポーツや芸能界が占領の子供達がその容姿や体力の違いを活かせる場となりました。

正明は現在ジョニーと呼ばれ、妻の家の養子となりました。20代の頃自分のオーストラリアルーツを再確認し父親と再会する事ができました。

現在夫婦は天草で英語学校を経営し、家族で日豪に本拠を置いた生活をしています。

今紹介した人たちは、「占領の子供たち」の本で取り上げた人々の一部です。もちろんすべての「混血児」たちが皆彼らのように成功した訳ではありません。まだまだこの生きた歴史には様々な話がありますが残念ながら今回は時間がありません。これから皆さんの質問にお答えする事により今少しお話できたらと思います。ご静聴ありがとうございました。

Walter Hamilton
Walter Hamilton