日豪を繋いだアーサー・サドラー教授と近代版画
シドニー大学美術館 サドラー展キュレーター 味岡千晶
シドニー大学美術館では、来年2011年に企画展『サドラー教授と日豪版画のモダニズム(仮題)』を予定しています。豪日間の交流があまりなかった戦前にも、日本の文化・美術を理解し、これを豪州の近代社会に生かそうとした知識人・芸術家がありました。シドニー大学で東洋学を教えたA.L.サドラー (1882-1970)もその一人でしたが、日本語の古典を読みこなす語学力を持ち、日本の伝統芸術に造詣の深かったサドラーの貢献は、サドラーの教え子の一人が彼を記念して大学に残した基金によって、現在も続いています。
イギリス人アーサー・リンジー・サドラーは、オックスフォード大学でヘブライ語を学びましたが、動物学者エドワード・モースが著した『日本の家と環境』(1886)を読んで日本に興味を抱き、1909年に日本に到着しました。日本では岡山の第六高等学校と東京の学習院高等科(1919-22)で教鞭をとった後、夏目漱石を教えたことで知られるジェームズ・マードック教授の後任として、1922年シドニー大学に東洋学教授として就任、1947年までの在任中、豪州における日本の美術・文化の紹介に尽しました。1
サドラーは、その著書『日本の生花芸術』『概略日本建築史』『概略日本史』および『方丈記』『平家物語』の英訳で知られています。『日本の生花芸術』は、明治時代の英国人お雇い建築家として有名なジョサイア・コンドルの「日本の生花」(1896年『スチュディオ』誌に連載)をベースにしたものですが、コンドルの著書が生花の紹介であるのに対し、サドラーの本は、その美意識を積極的に西洋モダニズムの住宅装飾に取り入れようとする意思で書かれています。そして、これにライオネル・リンジーという著名な版画家が前書きを寄せています。ライオネル・リンジーは、弟のノーマンと共にシドニーとメルボルンの二大都市にまたがって活躍し、豪州で最も人気ある作家に数えられています。この前書きでリンジーは、極東の芸術の重要な要素は、画面を統一する「リズム」にあり、自分はコンドルの著書の図版のいけばなを水彩で模写しながらそのリズムを学んで自作に取り入れたと述べています。
19世紀から20世紀初頭にかけて日本美術(特に浮世絵)にインスピレーションを得たいわゆるジャポニズムは、近代の西洋美術において重要な出来事でしたが、豪州におけるジャポニズムは主としてヨーロッパで学んだ作家などを通じて、ヨーロッパ経由で少し遅れてもたらされました。しかし一方では、日本の文化・美意識は、もっと直接的にも浸透していました。たとえばネヴィル・バネットという、蔵書標と浮世絵の熱心なコレクターは、複製浮世絵を渡辺版画店に注文し、これを貼り付けた浮世絵研究の私家版限定本を出版・販売していました。1930年代には、豪州の代表的なモダニスト作家マーガレット・プレストンと、豪州で評論家としても活躍したドイツ人作家ポール・ヘイフリガーが日本に渡って日本の木版画の技法を学び、これを取り入れた作品を発表しています(「日本風の豪州版画1900-1940」と題する豪州版画の展覧会が、2010年6月からオーストラリアを巡回します)また写真の分野で日本のモダニズム感覚を持って直接豪州の美術写真家たちと交わった日本人として、1919年から1923年までシドニーに滞在した商社マン石田喜一郎 (1886-1957)と、シドニーで職業写真家となり、石田に写真を教えた鍵山一郎(1891-1965)の二人がいます。石田は、イギリス、豪州、そして日本で作品を発表しました。2
1920年代・30年代の豪州都市部では、リンジーやバネット、また椿の栽培で知られる言語学者E. G. ウォーターハウス教授 (妻ジャネットはイケバナ・インターナショナルのシドニー支部創立者)を含めた芸術家・知識人が、上中流階級の趣味・趣向のリーダー的役割を担っており、サドラーもその一人でした。サドラーの最も知られた活動は、日本の美意識をインテリアや庭園のデザインに取り入れるよう奨励し、自らこれを実践したことでしょう。サドラー夫妻の自宅は、日本の建築様式を移植したものではなく、その美意識を適所に活用し、東西の伝統をクリエイティヴに生かそうとしたもので、『Home』という住宅・インテリア雑誌にたびたび紹介されました。その一方で、サドラーは敷地の一角に純日本式の茶室(現存せず)を建て、しばしば学生や友人を招いて日本の建築空間を体験させ、次の世代の知日家を育てたのでした。
生花と茶道という、日本の伝統芸術の美学を豪州に広めようとしたサドラーではありましたが、彼の日本観は、コンドルの時代の視点を越えて、日本近代のエネルギーを認識したものでした。たとえば彼は、豪州の美術雑誌Art in Australiaによせた「日本人の西洋美術観」という記事で、松方コレクションについて述べています。現在オルセー美術館に収蔵されている後期印象派の作品数点を含む旧松方コレクションは、国際人松方幸次郎が莫大な資財を投じてヨーロッパで収集した、当時の世界水準から見ても優れた美術コレクションでした3。その大部分はロンドンとパリにありましたが、松方は1919年に数百点を日本に送り、自宅で友人・知人に披露しています。サドラーは実際に見てはいなかったようですが、松方邸に招かれてそのコレクションを見ていた人間に、イギリス人バーナード・リーチ(1887-1978)がいます。版画家として日本に渡り、後に陶芸家となったリーチと親しく芸術文化について意見を交わす間柄であったサドラーは、リーチから松方コレクションの詳細を聞いたことでしょう。またサドラーは、西洋美術の紹介で有名な雑誌『白樺』の同人とも交際して彼らの文学と思想を高く評価しており、彼らが西洋美術・文化を自国の伝統と同じレベルで論じる様子を身近に見ていたのでした。
サドラーがみた1920年前後の日本は、道徳的には明治時代の儒教教育に疑問を感じて個人主義を唱え、美術的には芸術家の自由を謳う作家たちを輩出した、いわゆる「大正デモクラシー」の真っ只中にありました。中でも版画は、その複数性と運搬の容易性で、1911年に『白樺』が主催した泰西版画展覧会を皮切りに、1914年に山田耕筰と斎藤佳三がドイツからもたらしたDER STURM木版画展など、芸術を志す若い日本人が、西洋近代の息吹とその表現の可能性に直接触れることのできた分野であるため、そのインパクトも強く、恩地孝四郎をはじめとする創作版画の作家たちを啓発したのでした。1918年には日本創作版画協会(1931年に改組され日本版画協会となる)が結成され、翌年からは日本創作版画協会展という定期的な発表の場を得て、日本の近代版画は質量共に成長していきます。
これら戦前の「創作版画」は、市場がごく限られており、多くが小品で摺りの枚数も少ない反面、作家の情熱と版に託する思いが真撃に伝わってくる作品が少なくありません。シドニー大学では、サドラーの教え子であったM. J. モリセイ(1908-1984)がサドラーを記念して大学に遺贈した基金により、ジョン・クラーク美術史映画学学部教授の助言を得て1920年代から1930年代の作品を中心とする日本の近代版画を購入してきました。その結果、現在シドニー大学の日本近代版画は日本国外においては指折りのコレクションに成長しています。この展覧会では、その中から主要な作品を展示します。
一方、当時日本で紹介され、作家にも影響を与えたウイリアム・ニコルソン、フェリックス・ヴァロットン、マックス・クリンガー、フランク・ブラングィン、エドワルド・ムンク、ケーテ・コルヴィツ、ワシリー・カンディンスキーなどは、言うまでもなく豪州の作家たちにも大きな影響を与えています。近代国家としての豪州は、西洋文化圏にあるとはいえ、ヨーロッパの「伝統」から切り離されていたことと、ヨーロッパとの地理的距離から、モダニズムの発展に関しては、日本との違いよりはむしろ共通点が多かったのではないかと考えることが、この展覧会の焦点の一つです。
1920年代という、日本において近代美術が定着した時期に、言語の壁を越えることのできたサドラーは、その動きを間近に観察した後、豪州に渡りました。この展覧会は、サドラーの足跡を出発点とし、版画を通じて日本と豪州の「近代」を、ヨーロッパとの関係という文脈で探る試みです。
- 1 http://pweb.cc.sophia.ac.jp/s-yuga/seikei/soseki.pdf参照
- 2 光田由里「石田喜一郎とシドニー・カメラ・サークル-写真における近代と日本」『石田喜一郎とシドニー・カメラ・サークル』渋谷区松涛美術館2002-04年8-19頁
- 3 松方コレクションについては、1989年に開催された『松方コレクション』展とその図録(神戸市立博物館編集)でその大半が明らかにされています。