映画『オーストラリア』からみえるオーストラリアの歴史と社会
佐和田敬司(早稲田大学教授)
イギリスへの思いとオーストラリア人意識
オーストラリアに最初にイギリス人達がやって来たのは18世紀の終わりだが、その地で生まれた彼らの子弟は既に、自らをイギリス人とは違う「何者か」だと意識していたと言う。「本国」イギリスとの関係は徐々に変わっていったが、変わらないのは、オーストラリア人が自らを「荒々しい植民地人」とイメージしてきたことだ。
本作で、イギリスからやって来たばかりのサラが、カンガルーの優雅な跳躍にうっとりしていた矢先、そのカンガルーがオージーに酷たらしく殺されてしまい驚愕する場面は、この関係性をよく示している。そもそもオーストラリア映画は1970年代に大きく発展したが、その原動力だったジャンル「オッカー映画」は、イギリス人と対比して粗野で無骨でお下劣であるが故に持つバイタリティーこそが、オーストラリア人の資質であると高らかに宣言した。このようなオーストラリア人意識は、オーストラリア映画の重要なテーマなのだ。
荒々しい植民地人というイメージは、「奥地」と切り離すことができない。本作の舞台の一つ、ノーザンテリトリーの光景がまさにそれである。オーストラリア人のアイデンティティは奥地から生まれてくると言われ、奥地で生きる様々な人々、ブッシュレンジャー(山賊、時には義賊)、スワッグマン(最下層の渡り労働者)そして、本作にも登場するドローヴァー(牛追い)などは、国民的な「神話」の登場人物となった。
この作品の前半部分は、1946年に製作された映画「オヴァランダーズ」を下敷きにしている。第二次大戦中のノーザンテリトリーを舞台にして、日本軍の攻撃を想定して家畜を処分することに反対した主人公が、牛の群れを引き連れて大陸を南下する物語だ。世界中で公開され異例のヒットとなった「オヴァランダーズ」は、国民的ヒーローとしてのドローヴァーのイメージを鮮烈に人々の記憶に留めたのだ。
先住民アボリジニ
本作で印象的なのが、暴走した牛を、ナラがキング・ジョージから送られた力で食い止める場面だ。これは1980年代に大ヒットした「クロコダイル・ダンディー」で、主人公の白人がアボリジニから得た力で水牛を触れずに静めるシーンを彷彿とさせる。アボリジニにこのような神秘的な力が備わっているという考えは、荒唐無稽に思われるかもしれないが、オーストラリアの白人には漠然と意識されてきた。
確かに歌で人を殺したり病を治したりする彼らの呪術的な力は、西洋との接触によって減退したと言われる。一方、アボリジニは奥地の白人社会で、農場での労働力だけではなく、奥地に逃げ込んだ犯罪者を捜索する追跡人(トラッカー)として警察に加わったりした。彼らの土地に対する知識とそこを生き抜くための知恵は、奥地に暮らす白人にとって絶対不可欠なものであった。加えて、アボリジニからこの大地を取り上げ自分たちのものにしたという原罪は潜在的に白人達の胸にあり、これらがない交ぜになって、白人はアボリジニ対して「畏怖」と「神秘」を感じてきたのだ。
その一方で、アボリジニを人間として扱わず虐殺したり、逆に絶滅を恐れて保護したり、さらには白人社会に同化させようとしたりと傲慢な行いを繰り返してきた歴史もある。特に同化政策の一環として、白人とアボリジニの間に生まれた子供をアボリジニの母から奪い同化させる行為は70年以上続き、その子供達は今日「盗まれた世代」と呼ばれている。
本作でも、ナラは「盗まれて」施設に送られた。しかしこの政策を生み出した「過ち」を最もよく表しているのは、ナラの親代わりとなったサラが、彼をウォークアバウトに参加させようとしなかった場面である。本作がもう一つ下敷きにしている作品に、1955年の記念碑的な豪映画「ジェダ」がある(本作でナラが飼っている犬もジェダと名付けられている!)。
「ジェダ」では白人の養母が、アボリジニ少女ジェダがウォークアバウトに加わるのを妨げたために、ジェダにアイデンティティ・クライシスが起こり悲劇的な結末を招く。つまりサラと「ジェダ」の養母は全く同じ行為をしたわけだが、最後にサラはナラをキング・ジョージに託し旅立たせるというところが、この作品が「ジェダ」から50年経った今作られたことを如実に示している。
その間、1967年にアボリジニに市民権が与えられ、1990年代には先住権が最高裁で認められ植民地化で奪われた多くの土地が返却され、2008年には首相が「盗まれた世代」への公式謝罪をした。
ナラのウォークアバウトを妨げようとしたサラの行為は、本作の舞台である時代の考え方そのものだ。しかしサラがその「過ち」に気づいてアボリジニの意志や伝統を尊重する結末に、今日のアボリジニと白人の関係がはっきりと反映されている。
日本との戦争
日本人で、第二次世界大戦において日豪が戦ったと認識している人はあまりいない。英米仏などの国と異なり、日本軍によって直接本土を攻撃された国(ただし本作に描かれているような上陸作戦はなかった)であるオーストラリアでは、ニューギニアでの日本軍との激闘や、三人に一人が死んだという日本軍捕虜収容所での虐待を生き抜いた兵士たちの勇気が、ナショナリズムをかきたてるシンボルとして語り継がれている。シドニーを襲った日本の小型潜水艇は今でも、首都キャンベラの戦争記念館に展示されている。本作を観た多くの日本人には、寝耳に水のことかもしれない。
しかし、オーストラリアでは日豪の不幸な歴史に正面から取り組む物語が数多く生まれた。例えば、オーストラリア兵捕虜に対する日本軍の虐待をテーマにした戯曲「フローティング・ワールド」は、1995年に邦訳され夏八木勲主演で日豪両国で上演されたが、日本よりオーストラリアで強い関心が寄せられ、日豪文化交流の記念碑となっている。本映画をきっかけに、戦争の記憶をめぐる両国の温度差がさらに埋まることを願う。
<コラム> 脇を固めるオーストラリの大スターたち
本作の脇を固めるジャック・トンプソン、ブライアン・ブラウン、デヴィッド・ウェナム、ベン・メンデルソン、そしてデヴィッド・ガルピリルは皆、オーストラリアでは大スターだ。かつてトンプソンが演じた牧場の羊毛刈り職人や、ブラウンの演じた大胆不敵なオーストラリア軍人などの役柄は、オーストラリアの歴史や国民性の「象徴」とまで言われる。彼らのような、いるだけで「オーストラリア男性」が匂い立つ俳優は、他に決して代わりがいない。
舞台で活躍した怪優ぶりで、ジャンキーから好青年までどんな役柄も自在にこなすウェナム、オーストラリアには珍しい正当派二枚目俳優のメンデルソンも、オーストラリア映画に確固とした地位を築いている。そしてガルピリルはアボリジニとして映画スターの地位を勝ち得た最初の俳優として、すでに伝説の域にある。バズ・ラーマン監督が構想した「オーストラリア」の風景に、彼らの顔は、絶対に欠かせなかったはずである。
なお、バズ・ラーマン監督『オーストラリア』について、より深くお知りになりたい方は、以下も併せてお読みください。
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佐和田敬司「国民映画としての『オーストラリア』」
早稲田大学オーストラリア研究所編『オーストラリア研究―日本の多文化社会への提言』(オセアニア出版社)所収