特集記事 - オーストラリア映画最新情報 映画から<オーストラリア>のいまを読み取る
佐和田敬司(早稲田大学教授)
ポスト黄金時代の今
1990年代のオーストラリア映画はヒット作に恵まれた黄金時代であり、そこで育った多くの俳優や映画監督は、次々とハリウッドに羽ばたいていった。が、彼らの多くは常に古巣への愛着を忘れず、地元の映画をもり立てている。
2009年日本公開の『オーストラリア』は、バズ・ラーマン監督を始め、ハリウッドで引っ張りだこの俳優達が総力を挙げて取り組んだ作品だし、ケイト・ブランシェット主演の『リトルフィッシュ』(2005)、急逝が惜しまれるヒース・レジャー主演の『キャンディ』(2006)、トニ・コレットが助演した『ブラック・バルーン』(2008)など、世界的な知名度を得たオーストラリア出身の俳優達が、オーストラリア映画に彩りを添え続けている。
さらに、彼らの後に続くような新しい才能も輩出し続け、いまやオーストラリア映画は決して無視できないものとなった。2006年には東京国立近代美術館フィルムセンターで「オーストラリア映画祭」が開催され、日本での認知度も上がってきた。
移民・難民の物語
オーストラリア映画は常に「オーストラリア」を描くことを意識し、社会を如実に反映しているのが魅力だ。最近立て続けに取り上げられているのが、難民や不法入国者である。二一世紀に入り、アフガンからのボートピープルの受け入れを拒絶したタンパ事件や、難民認定を求める人たちの収容所での騒乱など、それ以前にはほとんど知られていなかったオーストラリア内や周辺の難民の存在が、国民の耳目を集めてきた。
『ラッキー・マイルズ』Lucky Miles(2007)は、不法入国したカンボジア人とイラク人が、オーストラリアの砂漠をさまようコメディだ。90年代のヒット作『プリシラ』以来の砂漠のロードムービーの主人公が、今や不法入国者になったというのが面白い。カンガルーの標識とカンボジア人の取り合わせが、今のオーストラリアを表象する新しいイメージとして印象に残る。
同じように不法入国者を扱った最近の作品として、中国や東欧から騙されて不法入国し、オーストラリアの都市で売春に従事させられる女性たちを扱った『押し込まれた者たち』The Jammed(2007)も重要な作品である。
オーストラリアは第二次大戦後、戦争で荒廃したヨーロッパから多くの移民を受け入れ、また1970年代始めまでには白豪主義から多文化主義へと大きく国是を転換させた。大きな歴史の流れはそうだが、移民達一人一人は、喜びや悲しみを含めて、個々の経験を経てきた。彼らの物語がオーストラリア映画の中で再生されることで、「オーストラリアの物語」となっていく。
『ホーム・ソング・ストーリーズ』The Home Song Stories(2007)では、1960年代の香港のナイトクラブの歌手だった女性歌手がオーストラリアの軍人と結婚し、連れ子を伴ってオーストラリアに移住する。が、白人の姑の偏見の目に耐えられず家を出、中国人の不法入国者と危うい恋に落ち、そのために子供達を傷つける。恋に破れ、狂乱し、やがて死を選ぶ姿を、大人になった息子が回想するという筋だ。
オーストラリアに新生活を求めながら「オーストラリア人的生活」になじめず転落していった母に振り回された息子は、母について語ることで、母を責めつつも母を許し、彼女を感じようとする。本作は、マイノリティに対する差別を告発するものではなく、この国でひとりの移民が母として女としていかに鮮烈に生きたかを、淡々と描いた個人史である。
先住民、そして白人の物語
近年アボリジニのテーマに取り組み始めた監督ロルフ・ドゥ・ヒーアの、異色のアボリジニ映画が『十艘のカヌー』Ten Canoes(2006)である。本作は、一九三〇年代に人類学者がアーネムランドを調査し撮影した多くのアボリジニの風俗や儀礼などの写真をそのまま映像化することを試みている。
作品は、これまでのオーストラリア映画におけるアボリジニ表象には全くない、「本物らしい」姿に圧倒させられるとの評価を得た。ただ、この映画が、1930年代の白人のアボリジニに対するまなざしの再生産になってしまうのか、失われつつあるアボリジニの様々な儀礼や文化をアボリジニが主体的に取り戻す試みに資するものになるのか、諸刃の刃と言える。映画が今後どのようなアボリジニ像を描いていくのか、極めて重要な試金石となった作品である。
子供を母から強制的に連れ去り白人社会に同化させるという行為の犠牲になった、「盗まれた世代」と呼ばれるアボリジニの人々に対して、2008年にラッド首相は公式に謝罪を行った。先住民と白人との和解は、この国の成り立ちを考える上で最も重要な課題であるが、一方社会における差別や格差は、簡単に解消できる問題ではない。
『ジンダバイン』Jindabyne(2006)は、川でアボリジニ女性の変死体を見つけた白人たちが、すぐに通報せずに川遊びを優先したことから世間の非難を浴びる。その後彼らは、アボリジニのコミュニティへ謝罪のために訪れ、彼たちの文化や精神に触れる。白人たちのアボリジニに対する潜在的な差別感情がえぐり出され、それに気づいた時に本当の和解に向き合うという、彼ら一人一人が真摯に考えなければならない主題を、作品は提示した。
述べてきたように、近年のオーストラリア映画では移民達のライフストーリーやアボリジニの物語、そして彼らと白人の関係性が描かれてきたが、一方で、メインストリームの白人の物語が姿を消したわけではない。バイタリティ溢れる伝統的な白人オーストラリアのイメージ「オッカー」を扱った映画は、根強く生き残っている。
『ケニー』Kenny(2006)は、仮設トイレ業者ケニーが汚物にまみれながらも、オッカー精神で人に優しく日々をたくましく生きる姿を描いて人気を博した。この作品は1970年代に一時代を築いた「オッカー映画」の伝統をくむものだが、この70年代のオッカー映画やセクシー映画、1980年代のホラーアクションなど、B級映画の宝箱の様相を呈していた時代のオーストラリア映画を回想したドキュメンタリー映画『ノット・クワイト・ハリウッド』Not Quite Hollywoodが2008年に公開され話題を呼んだ。このドキュメンタリーを観ていると、かつての荒々しく奔放な想像力が、オーストラリア映画の中にまだ脈々と流れている気がしてくる。