オーストラリアとバイオアート
多摩美術大学 久保田晃弘
2010年9月
バイオアートを最も直接的に定義するとすれば、それはWikipediaのバイオアートの項にあるように、「生きた物質(living matter)」を用いた芸術の実践、ということになるだろう。いうまでもなく、生物や生命は古くから、芸術のモチーフであり、インスピレーションの源であり、また思索の対象でもあった。しかしながら、今日の生物学、特に遺伝子組み換えやクローン技術、さらには生命機能や生命システムを積極的にデザインしていこうとする合成生物学の登場は、生命観や人間観に対する大きな変革を促しつつある。古くから社会や人間、そして技術と共に営まれてきた美術や芸術の世界も、こうした生命科学の発展と陰に陽に関連しながら、時代と共に変化し続けてきた。バイオアートは細胞や生命が、単なる芸術のイメージやモチーフとしてだけではなく、具体的なマチエールや素材として用いることで、芸術作品の保存や修復によるアーカイヴ化や、美術館による情報化、さらには複製技術によるアウラの喪失といった、芸術の近代化によって生じた様々な問題を再考しようとする、21世紀初頭の大きな美術運動のひとつと捉えることができる。
バイオアートの名のもとに行われている生命科学と芸術のコラボレーションは、伝統的にはアート&サイエンスというカテゴリーの一種であり、20世紀の相対性理論や量子力学、情報理論やサイバネティクスなどの科学の発展が、美術の世界にも大きな影響を与えてきたことはいうまでもない。しかしバイオアートは、そうした20世紀のアート&サイエンスの一種以上のものである。なぜなら、生命科学そのものが、科学を自称しつつも、物理学や化学のようにその対象を客体化することができず、その過程や結果が生と死、あるいは生殖や病気といった、私たち人間にとって、極めて主観的、あるいは文化的な問題と表裏一体の関係にあるからだ。今日、量的に拡大した経済システムや情報システムが、その量によって、あたかも自然のように予測不可能なもの、制御不可能なものとなり、逆に庭や田畑、ペットや家畜、農作物や環境が文化的にコントロールされるようになってきた。合成生物学によって、生命が分析(サイエンス)から総合(デザインやアート)の対象となったように、今や自然(nature)と文化(culture)の境界は極めて曖昧になり、その役割は次第に入れかわりつつある。
そう考えてみると、生命こそがそうした自然と文化のハイブリッドの象徴であり、バイオアートは自然を基盤とする科学と、文化に依拠する芸術がインタラクトし、さらにはエクスチェンジしていく最前線の現場であるといえる。だとすれば、コアラやカンガルーといったオーストラリア大陸という世界最大の島国固有の動植物や、先住民族アボリジニの聖地であるウルル(エアーズ・ロック)やマウント・オーガスタスのような超巨大な一枚岩など、世界の中でも唯一無二といえる固有の生物や自然環境を有するオーストラリアで、オーストラリアといえばバイオアート、あるいは逆にバイオアートといえばオーストラリア、といわれる程にバイオアートが注目され始めたのも、何か至極当然のことのように思えてくる。
今回、オーストラリア大使館の計らいで、早稲田大学の岩崎秀雄さん、高橋透さんと共に、パースの西オーストラリア大学に200年に設立された、世界初のバイオアートのCOEとして、これまで数多くの作家や作品を世界に送り出してきた「SymbioticA」やニューカッスル大学や西シドニー大学など、関連する諸大学や研究機関を訪問できたことは、4年前から多摩美術大学で「バイオアート」の講義を始め、昨年度からは演習科目として学生と共にバイオアートの制作を始めた僕自身にとっても、極めて貴重な経験となった。組織培養や遺伝子組み換えといった今日のバイオテクノロジーを取り扱うためには、生命科学の専門家や実験を行うための器具や施設といった、美術作品の制作のための既存のアトリエやスタジオとは異なるインフラストラクチャが必要不可欠だ。SymbioticAでは、もう何年もそうした環境の中で、アーティストや科学者を始めとするさまざまな専門家が、生命科学とアートをテーマにした制作研究を行っており、さらにパース近郊のクリフトン湖には、シアノバクテリアと石灰などの堆積物が何層にも積み重なって形成された生きた石のトロンボライトが生息しているなど、まさに学際領域としてのバイオアートのメッカとして、今後の僕ら3人の共同研究にも多大な示唆を与えてくれた(注)。
生きた細胞や生体を用いることによる(唯物的な意味での)生きた芸術-それは一見あたりまえのようでもあり、同時に荒唐無稽なものかもしれないが、思い起せば今からたった4~50年前には、コンピュータは人々にストレスを与え人間を奴隷化する悪魔の機械であり、コンピュータを使って芸術を行うなど言語道断だと思われていた。あと数十年もすれば、細胞や生体など生きた素材を用いた芸術表現など、あたりまえのものとなっていて、そこから今の私たちには想像もできないような新しい表現が、続々と生み出されているだろう。コンピュータを用いたニュー(デジタル)メディアアートが物質と情報を一体化したように、21世紀のニューメディアアートとも呼べるバイオアートは自然と文化を一体化する。それを科学と呼ぶか芸術と呼ぶかなど、もはやどうでも良いことに違いない。
(注) 久保田・岩崎・高橋の3人は、2010年度から3年間、科研費 基盤研究C「ポスト・ゲノム時代のバイオメディア・アートに関する調査研究」(22520150)を行なっている。
http://kaken.nii.ac.jp/ja/p/22520150
http://bioart.jp/ (2010年9月中旬公開予定)